今回は「広報」という仕事について考えてみようと思っています。一年ぶりの更新です。なお、僕は「広報」という仕事をしたことが無いです。あくまで「アナリスト」であり「デジタルマーケティングテクノロジーに詳しい人」でしかありません。
一方でこういう一面もあります。僕は音楽や映画、マンガや小説について、ある程度語れる知見があります。仕事より文化的なことが好きです。仕事したくありません。早くベーシックインカムくれ、収入下げて楽な仕事に転職するから。と思っている、そんな人間であります。その前提で読んでいただければ幸いです。とっても偏った考え方ですから。
なお、広報(PR)と言っても、コーポレートPRやマーケティングPRなど、ある程度区分されることは知っている。詳細な区分や定義は深く理解できていないけれど。本稿はおそらく、上記の区分だとどちらにも当てはまる話なのだと思って書きます。
そんな面もありつつ、「広報」という仕事を意識しなくてはいけない立場にもあります。なので、この記事が炎上しないことを切に願いながら書きます。炎上させないで!!やめて!!
「広報」って仕事を言い換えると?
ここからが本文です。
※ここから数パラグラフは面白くないので、読み飛ばして問題無いです。次のChapterに飛んでください。
あくまで一個人としての主観でしかないのですが、「広報」という仕事はStory Tellerであり、Context Creatorであるべきだと思っています。これは、「話題を振りまく」「バズらせる」とは全く異なります。
Public Relations、訳すと公との関係性を構築することが「広報」に求められることである。ここで言う「公」とは、メディアや一般消費者など、自社外の普通の生活者を意味するのだと思っている。そして、彼ら彼女らに伝えたいメッセージを効率よく深く語るために、「広報」という業務は存在し、話題を自然発生的に作っていくことなのだろう。※Paid PRは除く。
ここで大事になるのがストーリーなのだろう。人はただ事実を伝えられるだけでは感情は動かない。そこにストーリーや文脈が介在するから、耳を傾け、親身になり、感情を移入する。そのあたりは想像に難くないことだろう。
では、どのようなストーリーテリングをすべきなのか。僕はこの「ストーリーテリング」という行為の重要性や奥深さを理解せずに「広報です♡キャピ♡」みたいな人をたまに見かけるなー、って思ったり思わなかったりするので、「へー、きみ、かわうぃーねー」つって茶化したりしたくなる。もちろんそんなことはしたこと無い。マジだ。
ではストーリーテリングとは何なのか。次のChapterから、本当に言いたいこと、始まります。
批評および評論と、ストーリーテリングの関係性
「批評家」とか「評論家」とかいう肩書の人を昔(中学時分)は疎ましく思っていた。堅苦しく、難解な言葉を用いながら、意味不明な講釈を垂れるRockin’onのライターとか、キモっ!!って思っていた。ただ他人の作品に難癖をつけるだけの、非クリエイティブな仕事だとすら思っていた。ただし、坂本真理子さんの文章はその描写力の卓越もあり、大好きだったけれど。
ただ、時を経るについれて、この「批評」や「評論」というのがいかに崇高で意義のある事柄なのか、ということを思い知るようになる。
批評というのはとても知的な行為であり、文化的社会的に意味を付与することだったりする。文化において、批評を行うには、多彩で多様、かつ深い理解と想像力を要する行為だ。生半可な知見で読み解くことができない。
この行為は、生活者の行動の原因や深層心理を読み解くことと同期する。深い社会的文化的背景を読み解きながら、今誰がどういったことを感じながら生きているのか、という、その人ですら言葉にし得ない事柄を炙り出す作業だ。だから、インタビューというものには圧倒的なコミュニケーション能力と、心理を表出させるための「刺す力」が求められる。と、僕は思っている。
調査データや、それに対する解釈を添えてプレスリリースを出す、ということが業務に一部となっている広報担当者などは、このあたりを痛切に感じるのではないだろうか。
あらためて、僕は批評とそれに伴う分析および仮説構築という行為が好きだし、それを検証することも好きである。これはとてもインテリジェントな行為だし、批評家・評論家という仕事へのリスペクトがある。
Twitter上にいる「広報」担当者は何を語っているのだろう?
こんなことを思いながら、Twitter上に目を落としてみよう。言いたいことはわかるだろうか?そういうことです。
文化的・社会的に意味を付与して、それをストーリーに仕立て上げている、もしくは多少なり匂わせてくれている広報Twitterアカウントは少ない。大半は個人の趣味嗜好をベースに親近感を感じてもらい、それを企業に対する親しみや名前の記憶につなげたい、というだけである。そこにあるストーリーは、企業に紐づくのだろうか?そもそもストーリーはあるのだろうか?批評性は?インサイトを読み解いている?流れ行くTwitterタイムライン上で、誰が何を発言したのかなんて、覚えている奇特な人はどれだけいるのだろう?「頑張ってるね」と言われたことを糧にしながら、伝えられることのない「この企業の広報、頑張ってるけど身のある話って全然無いんだけど、広報って仕事わかってるのかな?」という取引先担当者の感情には目を向けられているだろうか?ただのミーハーにとどまり、文化的・社会的文脈を読み解かず、咀嚼することもなしに「トレンドはこれです!」とか言ってるアカウントは無いだろうか?ただ「自分」が商材だと勘違いしているアカウントは無いだろうか?
個人的な感性で言うと、Goの三浦さんや、辻愛沙子さんのような人は苦手だけれど、実はまともに「広報」の仕事をTwitter上で展開しているのはこの辺だけだったりする。好きじゃないけど。
話はもとに戻る
さて、あらためて僕はこの中で何を言いたかったのだろうか?
「広報」と「批評性」、それに伴う「ストーリーテリング」のお話だ。ぶっちゃけTwitterの話とかどうでもいいんだけど、正直バズらせるために書き加えただけです。実際にはこんなこと微塵も思っていません。マジ。友達が言ってたのをメモってコピペっただけ。
「広報」という仕事には「批評性」、言い換えると「文化的・社会的意義の付与」ということが求められる。そのためには深い洞察と、解釈に必要な深い知識と技術が必要になる。と僕は思っている。
それもあって、僕が唯一信頼しているのは、音楽や文学、エンタテイメントについて深く背後関係まで含めて理解しているような人物である。音楽や文学その他カルチャーには必ず裏に社会性が存在している。それらが人間の生み出すものである限り「必ず」存在する。そこに対して仮説とアプローチをする、というのが「広報」の本質的な仕事なのではないか。※マーケティングPRとかコーポレートPRとかの区分を意図的に除外して考えています。
それらのインサイトをストーリーへと添加させ、かつ構築した関係性を生かして生活者に届ける。
「広報」ってめちゃくちゃ大変だし、すげー仕事だよね。ただ広告費使って宣伝するだけのマーケティングとは違って、とても知的な仕事だし、そんじょそこらのガキんちょにはできない仕事だよなあ、って思っている。
なのでまず、僕がいつも「PR」という施策を考えるにあたっては、カルチャーに深く切り込める存在を優先してしまうのです。